8/17(木) 7:32 双葉社 THE CHANGE
https://news.yahoo.co.jp/articles/fa9a6bc731ddd85a1fe6122e023c7ffc0a4ad2fe
https://newsatcl-pctr.c.yimg.jp/t/amd-img/20230817-00000237-fchange-000-1-view.jpg ◆いきなり忙しくなったので、とりあえず事務所に入った
(※中略)
「いきなりすごく忙しくなっちゃって、最初はレコード会社との契約とかそういうこともよく分からなかったので、とりあえず知り合いが所属している事務所に入ったんです。P.C.Mという『筋肉少女帯』とか『GO-BANG’S』とか『有頂天』とか、そういうバンドがいた事務所です。
でも、契約期間の2年間所属したあと、もう独立して自分たちで有限会社を作っちゃって、そこからセルフマネージメントでやり始めたんですよ。当時ネットもなかったから、途中に悪意がなくても、伝言ゲームのように人を全員回っていくうちに、思っていたことと違う結果になることが多かったんです。
たとえばCDのジャケットをこうしたいみたいなのがあっても、反映されなかったり……。“自分のしたいことだけをしたい”というのがメンバー間で共通してあったんですね」
特殊な2年間を過ごしたあと、メンバーは徐々に元の生活に戻っていったという。
「僕らもあのとき10代だったら、そのまま大人に言われて変になってたかもしれないですけど、売れたとき年齢的には20代後半、もう30に近かったので、こんなのに浮かれるのはやめようと。最初からこれは一過性のものだから、今“わーっ”て言ってるけど、本来そういう音楽じゃないし、と、そこは結構メンバー内で確認し合っていました。
“やりたくないことはあまりやらずにいこう”とか、“ここはちょっと妥協してやっとくか”という、そういうのもバランスをとりながら、“落ち着こう”というのを、常にメンバー同士で確認し合ってやっていたんです。
『イカ天』に出る前にもみんな『たま』をやりながらソロもやってたし、他のユニットみたいなのもやっていた。それが元に戻ったような感じでやっていたら、だんだん『たま』よりも他のバンドとかが忙しくなって、メンバー同士のスケジュールが合わなくなっちゃったんですよ」
◆メンバー脱退、バンド解散
メジャーデビュー5年目の1995年にキーボードの柳原幼一郎がソロ活動のために脱退、その後は知久寿焼、滝本晃司と3人で活動を続けた。
「もともと“商業的に売れよう”というのはなかったですが、売れたらお金が入るから他の仕事をしなくていいので、バイトもやめられたし、それはよかったんです。
でも、セルフマネージメントだと、やっぱり宣伝とかあんまり積極的に動く人がいない。そうなると、テレビとかメディアとかもあんまり出なくなりますよね。普通はレコード会社とか事務所の人が、そういうところに“うちのバンドどうですか”みたいなのをプロモーションするんですけど、そういう人が誰もいなくて(笑)。メンバーも、“いいよ別に出たいわけじゃないから”って、逆にそっちの方がやりたいことだったという感じでしたね。
当時は最終的に八王子に事務所とスタジオを持って、事務員とかも一応雇ってたんです。でも『たま』の仕事をあんまりやれなくなると経済的にはね、そういう人たちに給料も払わなくちゃいけないし、スタジオとか事務所の家賃とかもあるし、そういうのはちょっと厳しくなっていきましたね」
2003年に「たま」は解散し、メンバーそれぞれの活動に入る。
「そうやって他のバンドの活動が忙しくなったってことがあって、『たま』は解散したんですけど、僕自身は解散した3日後くらいには『パスカルズ』のヨーロッパツアーに行ってしまったんで、解散の感傷に浸っている暇なんか全然なくて、常に次にやりたいことが忙しくてっていう感じでした。
最初に抜けた柳原は、『たま』とは違うソロ活動をする覚悟があったから、けっこう頑としてその後もメンバーと絡むセッションとかライブはしてないんですけど、メンバー間の確執とかでは全然なくて、ベースの滝本とは8月にも一緒に2マンライブを京都で昼夜公演にやったりしますし、知久とは今も『パスカルズ』で一緒です」
(※以下略、全文は引用元サイトをご覧ください。)
引用元: 【音楽】元たま・石川浩司「解散3日後にはヨーロッパツアーに行ってました」『さよなら人類』でNHK紅白出場のたま「解散の真相」 [湛然★]
ミリオンが信じられない
童謡みたいなかんじ
しっかり実力あるバンドだったな
お芝居みたいな世界観
足を使うバスドラムとかハイハットが全然わからない言ってたな
いい曲かどうかは主観だが、日本人が好みそうな要素が詰まった曲ではある
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